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『クルクルランド』を初めて遊んだ時、衝撃を受けました。
「僕と同じ遊びを思い付いていた人がいたんだ!」
私の通っていた小学校の校庭には、まるでクルクルランドのように
手頃なつかみ心地の鉄柱が適度な間隔で配置された遊具がありました。
(本来はおサルのように鉄柱をよじ登って遊ぶ遊具でした。)
小学校低学年の頃、そこでクルクルランドの主人公のように柱をつかんで
周りをクルクル回っては手を離し、遠心力で飛ばされた先にある柱を
またつかんではクルクル回って・・・。という遊びをよくしていました。
これは、遊んでいると微妙に目が回り
少しうっとりした気分になったりして、結構お気に入りの遊びでした。
この遊びを知っていて、かつ、それをファミコンゲームにまでしてしまう
そんなすごい大人がいるんだなぁ、と感嘆したものです。
もちろん、『クルクルランド』が学校で流行ると同時に
私がかつて愛用していた遊具でも
クルクルランドごっこが流行ったことは言うまでもありません。
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ファミコンの黄金時代、それは缶ジュースのプルタブが今のように缶についたままではなく、じょりんと取れてしまう時代でもあった。
僕はその日、缶コーラを買って、猛ダッシュで家に帰り着いた。なんのことはない、買ったばかりでハマっていた「忍者じゃじゃまるくん」をやりたかったから。4つ上の兄のいる僕は、ファミコンを占拠されまいと、彼よりも速く家にたどりつきたかったのだ。
コーラのプルタブをあけ、ファミコンのスイッチオン!軽快な音をバックに、僕のじゃじゃ丸は画面の中で暴れまわった。
その日のじゃじゃ丸くんはとても快調だった。なまず太夫の放つ妖怪どもの攻撃をものともせずに、得意の手裏剣投げで、どんどん面をクリアしていく。愛しいさくら姫を助けるために!!
そうして、時間も忘れて熱中していると、兄が帰宅。僕の壮絶かつ華麗なプレイを見ながら、兄はボソっとつぶやいた。
「なんか、血、でてるよ」
画面をPAUSEして、うつむくと畳が赤く滲んでいる。え?なんで、血?なんで血がでてるの?
気がつくと、正座していた僕のひざにコーラのプルタブが突き刺さっているではないか。そのとたん、自分の足が痺れていることに気がつく。あまりに熱中して、思わず正座でプレイしていた僕の左ひざに突き刺さるプルタブは、まるで、じゃじゃ丸くんの手裏剣のよう・・・
そんなわけはないが、とにかく、意識が現実にもどったあとの僕のじゃじゃ丸は、どうにもこうにもあかんたれで、あっというまにタコ殴りにされました→GAMEOVER
思えば、ゲームとシンクロしたのは、あれが最初だった。今でも「じゃじゃ丸くん」の名前を聞くと、僕の左ひざは少しうずくのだ。 |
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ディスクシステムが発売された当時 世の中の子供に
その魅惑のアイテムを「持っている奴」「持っていない奴」
と言う ただそれだけでクラス内の人気度が
大幅に変わっていたあの頃。
僕は「持っていない奴」だった。
正直ディスクシステムには興味をひかれていたけど、
12月生まれの僕の誕生日まではまだまだ先。
更に誕生日が来ても ウチの鬼かーちゃんがファミコン本体
より高いモノを買ってくれるなんて…
夕飯時 ゼルダの伝説のCMをやっていて ふと
「かあちゃん買ってーな」
とつぶやいた直後に喰らった平手の味 今でも忘れてません。
その平手から半年の間 毎日ばあちゃんの八百屋でお手伝いをし
それこそ今よりも本気で汗水流して働きました。
そのお小遣いで買ったディスクシステムとゼルダの伝説。
初めて自分一人の力で欲しいモノを手に入れる事が出来ました。
今でもゼルダの伝説のゲーム画面を見ると、純粋に頑張って
働き 頑張れば結果がちゃんと帰ってくると言う
とても大事な気持ちが蘇ってくれます。
ゼルダの伝説、面白かったなあ。
このゲーム 僕にとっては学校の先生より、先生してたかもね。
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海の中から、ドクロの形をした敵が現れる、すごい面白いゲームが出るから、絶対に買えよ。当時、ファミコンロッキーという漫画を読み、その内容を鵜呑みにして、友人Nのおこずかいで買わした。みんなで遊ぶこと数時間、ドクロの敵は出ない。焦りの色は、かくせない。ついに出ることはなかった。だまされたとNは言った。とりあえず謝ったが、私は、いまでも信じている。あの敵は、今も海底深く眠っているのだと。 |
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「おい、どうしたんだよ?元気ないじゃん。」
クラスメートに声をかけられたぼくは、小学5年。
はじめての「徹夜明け」だった。
あたまがガンガンして、ねむくて、だるくて…。
でも今まで味わったことのない充実感でいっぱいだった。
夢の8面クリア、ふふふふ。
留守中のおじいちゃんの部屋でこっそりプレイ。
冒険が終わった朝5時は、ちょっとだけ大人の気分を味わった。
今でも仕事で徹夜してるとき、ちょっとだけ思い出すんだ。
・・・スーパーマリオ。
でも、ぼくも、もう30歳。
マリオと同じぐらいの歳になっちゃったけど、
あれ以上の冒険に、また出会えるかなぁ。
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ずいぶん昔になりますが、冬休みに私がファミコンで
ドクターマリオをする様子をそばで伯母が見ておりました。
興味があるようだったので伯母に一度コントローラを渡したら
はまってしまい、年末から三が日にかけ年始の挨拶もそこそこに
1日平均8時間くらいこのゲームに熱中しておりました。
腰が痛いとシップをはり、灸をすえながらゲームをし、
とうとう夜中救急車で病院行きに。
伯母は会社には恥ずかしくて入院した原因をいえなかったよう
でしたがそのぐらい夢中になるゲームでした。 |
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さんちゃんのキャラクターと妙に間の抜けた音楽がなかなかよい感じで、よく妹と一緒に遊んでいました。
中でも印象的なのは、メーターボックスの電気のメーターを見て居留守を使っている事を見破るシーン。
居留守の見破り方に感心した僕と妹は、訪問先が留守だとなんとなく電気のメーターを見てしまう癖が今でも抜けきれないでいます。
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「ごはんよ!ファミコンやめなさい!」
「教会に帰るまで待って!」
母親にはそういう事情は通用しません
復活の呪文をメモしてる途中にアダプターをコンセントから引き抜かれたりした時は本気で泣けました。
遊びすぎで何度も母にファミコン本体を隠され
その度に家の中を捜索→発見を繰り返してました。
母のファミコン隠しは最初はワンパターンでしたが
回数を増すごとに手が込んできて
捜索難易度がどんどん上がっていきました。
時には発見してないフリをして
夜中にこっそり隠し場所から引っ張り出しては
終わったら隠し場所に戻したりしてました。
今では、良い思い出です。 |
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何が何でもファミコンが欲しかった。 ドンキーコングにマリオブラザース…。友だちの家で初めて目にしたときのあの衝撃、あの感動。お茶の間にゲームセンターがやってきた! 兄と二人で、お年玉の残りと数ヶ月分の小遣いをかき集め、いざ玩具屋へ向おうとしたその時、父が反対した。
「ゲームなんかやっても、人生の何の役にも立たないぞ」 自分の小遣いが、自分の思い通りにならなかった時代。拳を強く握ると涙が溢れそうになった。諦めきれない兄が何とか父を説得しようと試みるも頑固オヤジは「子供は外で遊べ」の一点張り。 ところが…。
「ファミコン買ったら、お父さんも麻雀ソフトで遊べるのに」 私の何気ない一言が父の心を揺さぶった。冷静さを装ってはいたが顔色が変わった。煙草を深く吸い込んで、思い切り勿体をつけた後、
「仕方ないな。麻雀ソフトを買うなら許してやろう」 かくして私たちは小学生には不似合いなソフト「麻雀」を手に入れた。そんなオッサンくさいソフトでは、友だち同士の貸し借りにも寄せてもらえない。そればかりか、麻雀ブラザースなどと不名誉なあだ名までつけられる始末。 でも最近「ファミコンミニ」が発売されたと聞いて「麻雀は出ないのかな」と期待している私がいた。いつの間にか、あの頃の父と同い年になろうとしている。 |
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ファミコン発売当初、小学生だった僕は友達(お金持ち)の家で衝撃の初対面をはたした。
当然のごとくファミコンに魅了された僕は、3本あったソフトの中でも特に気に入った『ドンキーコングJr』と本体を何とか手に入れたいと思ったが、誕生日にもクリスマスにもまだ早かった夏休みに入ったばかりのその時期、小学生の僕にとってそれは高嶺の花でしかなかったのだ。
しかし、どうしても諦めることができず、親になんとか買ってもらえないものかと頼み込んでみたところ「夏休みの間、毎日30分のランニングすること。そして5キロ痩せること。これを達成すれば買ってあげてもいい」との返答が!
当時、肥満児ぎみだった僕は30分も走り続けるなんてことはただの地獄でしかなかったが、『ドンキーコングJr』が家でできる!そう思うだけで僕の足は自然にランニングコースに向かった。
夏休み最終日、1日も休まず走ることは続けたが、結局3キロしか痩せることができなかった。また友達の家で遊ばせてもらうしかないのか、と半ば諦めていたところ、仕事から帰ってきた父の手にはデパートの袋に入った『ファミコン』と『ドンキーコングJr』が!
「5キロ痩せることはできなかったけど、諦めず毎日ランニングを続けたご褒美だ」
真っ黒に日焼けして、ちょっぴり痩せた僕は夏休み最後の日、眠くなるまで思いっきり『ドンキーコングJr』を楽しんだ。 |
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