岩田
今日はどうぞよろしくお願いします。
川島
はい、どうぞよろしくお願いします。
岩田
先生とはもう、7年半のお付き合いになりますね。
川島
長くなりましたね。
岩田
『脳トレ』(※1)は2004年12月2日、
ニンテンドーDSの発売日に先生のところにお訪ねして、
社内で勝手につくった試作ソフトをお見せして
ご提案したことがきっかけで生まれました。
それ以来のお付き合いになりますが、
偶然にも、わたしと先生は同世代で、
たくさんの共通体験を持っているんですよね。
川島
はい、同じ学年なんですよね。
岩田
わたしはそのことを知って、
「自分で会いにいって、お願いしよう」と思って、
『脳トレ』の試作ソフトを持っていきました。
その当時、まだ加齢医学研究所ではなかったですね。
川島
ええ。“未来科学技術共同研究センター”という
舌をかみそうなセンター名でした(笑)。
じつは当時、
「任天堂さんから社長さんが、
いったい何をしにいらっしゃるんだろう?」
って、けっこう身構えていたんですよ(笑)。
でもお会いしてお話しして、妙に波長が合って、
「この試作ソフトを使ったときの脳の活動を
測定してみましょう!」って、
ノリノリで提案した記憶があります。
岩田
“波長が合う”という感覚は、わたしもまったく同じでした。
もともと先生の『大人のドリル』シリーズ(※2)を知っていて、
実際にやったこともあって、
「面白い!」と思ったからソフト化を考えたんですけれど、
初対面でしたのに、すごく話が弾みましたね。
川島
そうでしたね(笑)。
岩田
その日、すぐに先生が試作ソフトを測定してくださって、
「このソフトは大丈夫です。
ちゃんと脳に効いているから、商品化できますよ」
とお墨つきをもらって帰ることができました。
確か、最初は「30分だけ」というお約束でしたけど、
けっきょく3時間も長居して・・・(笑)。
でも、すごく意味のある1日でした。
川島
はい、そうでしたね。
岩田
一方で、『脳トレ』を最初につくったとき、
世の中でこんなことが起こるとは思いませんでしたが、
先生にはどう見えていましたか?
川島
みなさんと同じ感覚だったと思いますけど、
ブームになるとは思っていなかったです。
「任天堂さんにやっていただくから、
話題にはなるだろうな」とは思っていましたけど、
こんなに、いろんな声が聞こえてくるほど
大きくなるとは、考えていなかったです。
岩田
「面白いものができた」という自信はあったんです。
ただ、ゲームに触れたことがない方たちが、
「これは面白い」と言ってくれるほど受け入れられるかは、
やってみなければわかりませんでした。
しかも国内ブームの後、海外でも展開することになりました。
わたしは「日本でとんでもないことが起こりつつある」
という手ごたえを得た2005年の秋頃に、
「これは絶対、世界で売るべきだ!」
と、使命感のようなものを感じて、
自分自身でアメリカやヨーロッパの販売担当の人たちに
売り込むために持っていって説明していたんです(笑)。
川島
ははは(笑)。
ただ・・・海外の展開については正直、
たとえば“計算をコツコツ解く”というのは、
「勤勉な日本人の国民性なのかな?」
という感覚はありました。
岩田
そもそも、読み書き計算は、
くもんさんが世界に輸出している
日本文化のひとつの象徴ですからね。
川島
はい。でもそれも、
「サムライのやり方だ」と言われて、
海外でそれほど広がっているわけではないんです。
そういう意味で、『脳トレ』が世界で受け入れられるかは、
僕の中ではクエスチョンマークはありました。
岩田
それが、特にヨーロッパでは日本の販売数を超えて
ある意味、社会現象のようになっていきました。
先生の研究を海外にお知らせする、という意味でも
「少々お役に立てたかな」と思います。
川島
そうですね。
僕個人を知ってもらうということでは
有名になったと思います。
以前、ドイツから大学の教授が訪ねてきたんですよ。
何しにきたのかと思えば、
その人も息子さんも『脳トレ』をやっている、と。
それで「プロフェッサー川島は、実在の人物か?」と、
家族でディスカッションになったそうなんです(笑)。
岩田
はい(笑)。
川島
自分の職場でも、息子さんの学校でも、
「あれは本物だ」「いや、バーチャルの人間だ」
なんて、ディスカッションになっていたらしく、
「本物に会えてよかった」と言われました。
岩田
フィクション上の人物のような
扱いさえ受けられたんですね(笑)。
川島
そうなんです。
「フィクションだったら、もっといい男にするはずだろう?」
と言ったら、「ウン」って納得されたんで、
ちょっとムッとしましたけど(笑)。
一同
(笑)