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うちは厳しい家庭環境で、ゲームなんてもん買ってもらえませんでした。このゲームと初めてあったのは、小学校一年生の時です。それは行きつけの理髪店においてあって初めてしたときは感動しましたよ!
この世にこんなおもしろいもんがあるのかと・・・それからその店に行くのが楽しみで、「早く髪が伸びないかなぁ」と当時はげかけていた祖父の毛はえ薬をつけてました。その店には、今も置いてあります。 |
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当時私自身は幼かったため、ゲームを理解するのが困難で、兄が主にプレイしていました。それを私が隣で見守りつつ、ストーリーを楽しむわけです。 毎回毎回ゲームをする時間になると、兄妹並んでTVの前に座り、終わると揃って立ち上がる。そんな日々だったのです。 そして、ゲームの終わりのお約束がひとつ。 それは、TVの横に置かれている一冊の方眼ノート。「ぼうけんのしょ」と書かれたそのノートの中に、子どもらしい大きな字で書かれているのは、もちろん「復活の呪文」です。 兄がTVの前を去った後、復活の呪文をメモするのは何故か私でした。大抵毎回3回くらい見直して正誤を確認してからファミコンのスイッチを切るのです。 しかし、そのくらい注意していても、間違えることはままあるわけでして。 間違えたときには、「僕の3時間を返せー!」とばかりに兄が怒ります。怒られます。 次第にそのことに理不尽さを感じ始めた私は、意地悪をされた日には50%の確率で、わざと復活の呪文の最後の一文字を抜かすのです。次に始める時には、「お兄ちゃんのおやつをくれたら最後の一文字教えてあげる」と交渉まで持ちかけます。 結局殴られて教えるハメになるのですが…。
3ヶ月くらいして、いい加減見慣れて、自分でも操作できるようになった頃には、兄のいないときに自分でもこっそりプレイをして、秘密のノートに復活の呪文を延々書き留めていたりしました。兄のプレイで慣らされているので、勿論呪文を書き間違えることなどありません。プレイ時間は兄が使わない時に限られていたので、少しずつしかプレイできませんでしたが、私はそれでも満足でした。 結局、総時間数が少なく、私がエンディングを迎える前にドラクエ3が発売されることになってしまいましたが。
その後。ドラゴンクエスト3が発売されました。 またこっそりプレイすることを期待していた私。 が。
今度からは復活の呪文を書かなくて良い! セーブ機能の採用により、私は泣き崩れました。 「私がプレイ出来ないじゃん!!」
それからというもの。 こっそりプレイすることを断念せざるを得なくなった私は堂々と女ゲーマーとして成長し。新作ゲームを買う度にセーブ場所の割り当てに口論を繰り広げる兄妹の姿がありましたとさ。 |
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このソフトは自分の叔父が持っていたもので、小学生だった当時、友達と夢中になって遊んだ一本。
当時の自分は学校に行っても友達とスパルタンXのキャラになりきって遊んでおり、あの頭に残るBGM、「ヴォッフォッフォ」という独特の笑い声、階段を上るときの音、全てを真似しながらスパルタンXの世界に浸っていた。そんな時、中盤あたりに出てくる、主人公に絡み付いてダメージを与えてくる敵(友達の間ではつかみ男と呼ばれていた)の真似をした友達が襲い掛かってきた。当然自分は主人公となっている。必死で振りほどこうともがいた。
すると廊下にガタン!という音が響いた。自分の手なのか友達のものなのか、とにかく何かが当たり消火器が倒れた。噴き出す消火剤。目の前が真っ白になり、廊下はもうヒドイことに。
その後先生にかなり怒られたのだが、そのときはもう「つかみ男が…」と言い訳するしかなかった。
ちなみに現在の携帯の着メロは、もちろんスパルタンX。 |
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幼稚園のころ、スーパーマリオとファミコンを買ってもらい、毎日のように遊んでいました。
ある日、私は「どういう仕組みでマリオが動いているのだろう?」と疑問に思いました。当時の私には理解できるわけも無く、映画のフィルムのようなものがカセットの中に入っていて、背景とマリオのフィルムを重ねているのだ、と考えていました。
中学に入り、ソフトウェアがプログラムで出来ているということを知り、パソコンを購入したのですが、当時は回りにパソコンを持っている人が少なく、パソコンを使ってプログラムを組む方法がわかりませんでした。
高校に入って、やっと初めてBASICを触りました。その時、私は「スーパーマリオを作りたい」という想いが心のそこから湧き出てくるのを感じました。
解析しようと改めて、スーパーマリオをプレイすると、その動きの細かさや、さまざまな仕掛けに驚愕しました。
完全に同じものを作るのは無理かも知れませんが、私は今でも「どうやってスーパーマリオを作るか」と考え、少しずつでも作っていこうと思っています。
そんな私ですが、高校を卒業して専門学校で本格的にプログラムを勉強し、今の職に就いています。
それは、スーパーマリオが私に与えてくれた知恵のおかげだと信じています。 |
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私は実家を離れ、違う地域で暮らしている。今の場所で生きて行こうと思っているが、最近母が戻ってきてほしいと言う。 とりあえず、私は実家に遊びに戻った。久しぶりに戻った実家は懐かしく、学生時代の色々なものが、捨てられずに残っていた。私はその中に、白い取っ手の付いた、緑色のケースを発見する。ファミコンのカセットを数本収納できるケースだ。 それを空けると、ドンキーコングやらエキサイトバイクやら、ロックマン2やらと、やたら懐かしいゲームがぎっしりと詰まっていた。私は、その中からふと、このゲームを手に取った。
「ドラゴンクエスト4」。導かれし者たちというサブタイトルよろしく、私はなぜか、このゲームの方に手が導かれてしまった。
ゲームは一日一時間。親に言い渡された掟を、初めて破ったゲームである。 オムニバス形式のこのゲーム。一章が終わるごとに、新しい章への期待と、終わりゆく章への別れを告げる寂しさがある。様々な物語を経てたどり着く最終章。まるで人生そのものだと、今になって考える。当時としてはただ面白く、必死にレベルを上げてお金を稼ぎ、強力なアイテムが欲しいだけだった。マップに散りばめられたコインを集め、友人と情報交換をするのが楽しくてしょうがなかった。 そんなことを思い出しながら一章からプレイしていると、母がぽつりとこんなことを言った。
「その曲もだいぶ聞いたわねえ」 あの日のように台所で、料理を作りながら。 最初は、実家に帰ってくるなりファミコンをする私に、呆れているのだと思った。だが次の言葉で、皮肉でもなんでもない、心から出た言葉であることを、私は悟ったのだ。
「ゲームの音楽って結構いいものね」 母も、昔のゲームを懐かしんでいたのである。「ゲームばっかりやって!」と、このゲームを目の敵にしていた過去の母。そんな母も、台所でゲームの音楽だけ聴きながら、何かを考え日々を積み重ねていた。 このゲームの2章に、おてんば姫の冒険話が存在する。アリーナ姫は、やりたい事のために都会に飛び出した。そして、ハチャメチャをやって、目的を達成して故郷に戻る。だが戻った故郷は、何者かに破壊しつくされていた。 故郷に戻るのが早ければ、家族や皆を守れたのではないか?そうアリーナ姫は思ったのではないだろうか。 そしてこの話は、私の人生にもあてはまるのではないかと考えた。私はこの家に戻って、父や母と生きたほうがいいのではないか。それが私にできる、唯一の親孝行なのではないか、と。 アリーナ姫の悲劇を繰り返さないように、天が私に、このソフトを選ばせた。そして、古き日のコントローラーを握らせたのかもしれない。 |
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3人兄弟の末っ子です。
まだ私が小学校に入らない年の頃、家族みんなで小さなデパートに行き、オモチャ売り場に行くと、「お前が泣いておねだりしたら買ってもらえる。嘘泣きでもええから泣け。」と、姉と兄に言われた。
私自身もすごく欲しかったので、嘘泣きをして親に買ってもらった。(買わせた。)
後から、嘘泣きがバレた。
母親にこっぴどく怒られて、父親に笑われて呆れられた。
そして、この方法は使えなくなった。
結局、一番おいしい思いをしたのは、姉と兄。
すごい昔のことなんだけど、とても印象に残ってる思い出。
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RPG初体験作品です。冒険の書の記録の仕方を全然知らなかったので、アリアハンが僕の全てでした。何十回と同じ事をしてはそれだけで面白かった時代でした。特に、自分の名前を王様に呼ばれたときの喜びは今も忘れません。逆に、親友と思っていた奴のパーティに自分の名前が無い時の何とも言えない感じは忘れたいけど忘れられません。さらに、名前をつけてくれてもパーティには入れてもらえず、ルイーダの店にほったらかされた自分を自分で強く育ててパーティに入れてくれるようアピールするという現実社会に繋がる厳しさ?も養われました。また、職業が魔法使いなのでよく死ぬらしく、教会でお金が掛かると言われ謝った事もありました。装備が安くつくとよく反論していました。この頃から既にお金への執着は始まっていたのかもしれません。本当に奥の深い恐るべき名作です。 |
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ゲームをすると、どうしても兄妹仲が険悪になる我が家であったが
唯一このゲームだけは二人協力しないとクリアできなかった。
「兄ちゃん、招き猫出たよ!」
「危ない!飛脚が来た!!」
「1UP お前がとれよ」
などなど・・・
お互いをいたわりあいながら、プレイすることまる一日・・・
十数年前の元旦を、平和に過ごしたことを
私は一生忘れないだろう・・・ |
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その当時、私は小学生の中学年でした。周りのみんなはもうファミコンはほとんど持っている中、うちも兄とためたお年玉とお小遣いでようやくファミコンを手に入れたのは夏休みにはいったころでした。しかしながら、一緒に買ったにもかかわらず兄は一人占めしてひたすらスーパーマリオをやりこみ、夏休みをいいことに徹夜でやっていました。その結果、朝に兄を見たとき、目の下にくまをつくり、おはようと話しかけたところで鼻血を流しました。それを見て大爆笑したのを思い出しました。ちなみにクリボーはメットにかわっていました。 |
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放課後毎日のようにY君と遊んだ思い出のゲーム“アイスクライマー”。
当時、2人同時にプレイできるゲームは少なく、カセットは何本か持っていたが互いに待ち時間が必要ないこのゲームをよく遊んだものだ。
協力したり邪魔しあったりその時の気分で自分たちのルールが変わるのも魅力だったのだろう。
カセットの持ち主のY君は年上でゲームは僕より上手だった。よく置いてけぼりにされてゲームオーバーになったものだ。悔しかったが僕がゲームオーバーになるとリセット、2人で再開という遊び方で楽しく競いあえたものである。
ある年の3月、少し暖かくなったこの日も“アイスクライマー”を2人で遊んでいた。普段はピョンピョンと先に登ってしまうY君が少し登っては僕を待ちまた登るという風にしてくれた。
僕が「どうしたの?今日は仲良しゲームなの?」と聞くと「そうだよ」とだけ答えてまた黙って遊び続けた。
そして帰り際に「お前ヘタだからこれあげる。練習してこいよ」と“アイスクライマー”を僕にくれた。「??」と思ったが子供なので理由を考えず大好きなカセットが自分のものになった事を喜び持ち帰った。
当然親はこの「ゲームどうしたの?」と問いただし「Y君がくれた」といっても聞いてくれず、僕が黙ってもって帰ってきてしまったと思い、Y君の家えへ電話した。
Y君の親が出て「Yがさよならのプレゼントに○○くんにあげたんだよ」と説明してくれた。
「○○Y君お引越しだって寂しくなるねゲーム大事にしなきゃね」
僕はカセットを放り出してY君の家に走った。
「Y君お引越ししちゃうの?もう遊べないの?」
「○○、一生遊べないわけじゃないんだし泣くなよ。それより“アイスクライマー”練習しとけよ!うまくなっていなかったらカセット返してもらうからな」
あれから十数年たった現在ファミコン本体は黄ばみ、テレビにつながってはいないが僕の本棚の中で青いカセットが差し込まれたまま静かな時間を過ごしています。
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